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私には、移植待機患者の気持ちというものは、無人島で、
破船からの流木を待つ人の気持ちに似ていると思うのです。
江戸時代に鳥島に漂着して二十年間生き延びて帰還した、
土佐の長平は、その二十年の間に、他の船からの漂着民も加わり、
一緒に、難破船からの流木などを集めて船を造り、ついに生還したといいます。
その長平は、彼の体験の聞き書きを作っている人に、
破船の流木を待つ間、自分と同じ運命に落ちて、しかも、死んでいく人がいることを、
望んでいるのと同じだと気づき、悩んだと語ったそうです。
それでも、破船の流木を集めて船を造り、故郷に帰り着きました。
無人島の漂着民は、他の船の難破に対して、なんの責任もありません。
同じように、移植待機患者は、脳死患者に対して、なんの責任もありません。
それでも、破船の流木を集めつつ、良心の呵責を感じることも、
救急車のサイレンを聞いて、
脳死患者の発生と臓器提供への同意を望む自分におののくことも、
たいせつなことだと思います。
無人島であほうどりを食べるしか生きるすべのなかった長平とその他の漂着民たちは、
しまいには、鳥たちに対して罪を覚え、故郷に帰ってから、
鳥たちの霊を祀ったといいます。
私は、羽毛布団を作るためにあほうどりを取りつくした人に天罰が下ることが、
仮にあったとしても、
あほうどりを食べて生き延びた漂着民に天罰が下ることは絶対にないと思いますが、
それでも鳥の霊を祀る気持ちは大切だと思います。
ちょっと話がそれましたが、生きることには他の人の犠牲が伴うのが避けられない場合は、
移植にも、そのほかのことにも、自分で気づかないうちにも、いろいろとあると思うので、
自分のたいせつな人に生き延びてほしいと必死で願うことが、
別の誰かが心身ともにつらい、むごい状況に陥ることを望むことにつながる場合も、
あると思います。
たまたま、自分が目にした、わかりやすい例に対しては、
つい、責めてしまいがちですが、実は気づかないだけで、
自分もどこかで同じ事をしているかもしれないし、
想像もしないところで、自分のたいせつな人が、同じ事をしているかもしれません。
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